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ビバ!オキナワ
2月2日、夫婦共々還暦を記念して、沖縄の旅に行ってきました。基地問題に揺れて、とかく暗いイメージの沖縄ですが、この時期、日本の南の島の暖かさを味わってみようということになりました。
北日本では大雪に悩まされている中、流石に沖縄では2月というのに暖かく、桜が咲き胡蝶蘭やカトレア、デンファレの瑞々しい花々があちらこちらで咲き誇っていました。全長106キロの本島をほぼ一周してみました。サンゴ礁の海はどこも、あくまで青く透明でクマノミやカラフルな魚がたくさん泳いでいます。人々は明るく優しく接してくれます。想像以上に楽園でした。
滞在最終日の晩は、那覇の繁華街・国際通りで、沖縄の音楽をじっくり聴くことにしました。週末の夜の賑わいの街をそぞろ歩いていると、鉢巻をして浴衣を後ろで端折った小柄な威勢のいい呼び込みのおじさんから「今日は喜納昌吉さんが出ますよ、どうぞ、どうぞ」と呼び止められ、そのままそのライブの店に入りました。華やかな民族衣装で着飾った女性が沖縄民謡をいくつか歌った後、喜納さんが登場しました。
喜納昌吉さんは、「ハイサイおじさん」という曲で世に出て、あの名曲「花」を大ヒットさせました。その後、平和運動を積極的に進め、参議院議員として活動しました。一貫して「すべての武器を楽器に、すべての基地を花園に、すべての人の心に花を、戦争よりも祭りを」というスローガンを訴え続けてきました。何年か前の代々木のアースデーでは、地球平和のデモ行進の先頭に立って、我々と一緒に歩いたこともありました。
64歳になった喜納さんは衰えを見せることなくこの晩にも、一気に5、6曲の歌を全身で歌い切りました。歌の合間には、世界平和を目指す気持ちを熱く語りました。これまでにも喜納さんは、国内のみならず国際的な地球平和イベントに日本を代表して参加してきました。戦争や紛争の種は、領土や石油をめぐる争奪であったり、民族間や宗教間の軋轢で、簡単に解決する問題ではないかもしれませんが、喜納さんのように音楽にのせて、遮二無二に平和を訴える運動を続けてゆくことは、大事だなあと感心しました。
人々の心持ちが本当に変われば、世の中は確実に変わる筈です。
オーガニックコットンの普及活動にしても、小難しい話を積み上げて説得してゆくだけが能じゃなく、明るく楽しくリズムにのせて伝え広げる方法もあるのではないかと思いました。
帰りの空港の売店で、お土産を物色していて、お酒のコーナーに行きました。「元気になるハブ酒」という看板に釣られ、妻が「これお祖母ちゃんにいいわね」と金粉入りのハブ酒の瓶をつまみ上げると、店員さんはすかさず私の顔を見て「旦那さんの方がいいですよ」と言いました。やっぱり疲れているように見えたんでしょうか。
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日本オーガニックコットン流通機構
理事長 宮崎 道男
2012.2.9.
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マンチェスターとリバプール
石炭のかけらと煙突の煙、ここが私のふるさと。
どこの街にもある喧騒はうんざりするけれど、
街のみんなはそれでも幸せになりたくて生きている。
旅から帰ると工場の高い煙突が
真っ先に「お帰り!」と微笑んでくれる。
(歌詞の一部を意訳)
1968年、ピンキーとフェラスが世界的な大ヒットをさせたポップス曲です。
イギリスの地図を見ると中程のくびれた西側の海岸にリバプールがあって、それから東へ50キロほど内陸にあがったところにマンチェスターがあります。
マンチェスターは18世紀の産業革命の中心地で、一大綿工業の大都市になりました。 1830年にはリバプールとの間に鉄道が敷かれ、大量の綿製品がこのリバプールの貿易港から世界中に運ばれてゆきました。
リバプールを繁栄させたものは塩、タバコ、砂糖にラム酒、綿花に綿織物、そしてアフリカの労働力、奴隷たちでした。多少の後ろめたさがあったのでしょうか、奴隷は「黒い貨物」、綿花や砂糖は「白い貨物」とわざわざ言い換えられていました。
アフリカの西海岸に向けて、この港を出た貨物船には、綿織物、毛織物、銅製の食器など日用品が積まれていました。アフリカに着くとそれらを30倍もの儲けで売って、奴隷やガラスの装身具などを買い込み、それらを積んで新大陸の南北アメリカに向かいました。アメリカに着くと奴隷と積荷を現金に換えて、今度はサトウキビ、タバコの葉、綿花を仕入れて満載し、リバプールに戻って行きました。これが人呼んで「三角貿易」です。
綿花取引所の様子
1872年にニューヨークに綿花取引所が出来ると続いて1882年には、リバプールにも綿花取引所ができ、世界の綿花相場を支配しました。
リバプールといえばビートルズ発祥の街で、音楽の世界に旋風を巻き起こすきっかけとなった有名な「キャバーンクラブ」もこの街にあります。ビートルズのメンバーのポール・マッカ―トニーの父親のジムさんは、綿花のセールスマンでこの街でさぞかし忙しく働いていたことでしょう。
アメリカ南部の綿産地から大量のコットンがミシシッピー川を下り、ニューオリンズの港から積み出されてゆきました。綿花栽培の中心地メンフィスからニューオリンズにかけて、そこで働くアフリカの人々は、ゴスペル、ブルース、リズム&ブルース、デキシーランドジャズへと発展させてゆきました。
メンフィスは、云わずと知れた伝説のロックンローラー、エルビス・プレスリーの生まれ故郷です。プレスリーは、綿花畑で働く母親の背中で育ちました。
もう一つの巨星、ソウルミュージックのジェームズ・ブラウンは、綿花畑で働き、「綿摘みは辛いの一言に尽きる」と回想していたそうです。
1920年代、禁酒法を逆手にとって大儲けしたギャング、オウニー・マトゥンはニューヨークのハーレム地区に白人向けの高級ナイトクラブをオープンさせました。デュークエリントン、ルイアームストロングなど一流のジャズ演奏家が大挙して出演し、さながらジャズの「メッカ」となりました。
出演者はすべて黒人で、そのクラブの名前は、なんと「コットンクラブ」でした。コットンと黒人奴隷の存在は、このように切っても切れないつながりを持っていました。
コットンをめぐる音楽は、支配された極貧の人々の苦境を慰める鎮静剤の役割をしていたようです。
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日本オーガニックコットン流通機構
理事長 宮崎 道男
2012.1.12.
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